造形カリキュラム



【Ⅰ】造形カリキュラムの基本的な考え

3.造形活動理解の軸となるいくつかのこと

(1)印象と表現
 ゆたかな印象がなければゆたかに表現することはできません。造形活動において保育者がまず心がけることは、子どもたちがゆたかな印象を享受できる環境を準備し、印象に残る経験を共有することです。ゆたかな印象はそれを共有する人を必要とします。春であれば岩屋神社の境内には桜の花が咲き誇り、鎮守の森に鶯が歌いますが、子どもたちは桜吹雪や鳥の歌の上達に無自覚的です。傍らにいる保育者が子どもと経験を共有し、その経験を言葉に置きなおし、その経験がもたらす情動の変化を子どもに伝えることで、経験の共有が情動の共有でもあることを子どもたちに伝えなければなりません。どんなにゆたかな印象も、保育者が共有しなければ子どもたちはそれを自身の経験とすることができないのです。
 印象と表現にはもうひとつ大切なことがあります。それは、表現行為がつねに印象を伴うことです。たとえば歌です。人は自分の歌う歌を自分で聴いています。聴きながら歌い、歌いながら聴くのですが、その歌は、印象と表現のあいだを時計の振り子のように行き交います。描いたり作ったりするときもおなじです。子どもが白い画用紙に向かい、絵の具をたっぷり含ませた筆で線を描き、そこに現れた色彩とフォルムに驚きを感じている様子をみることは描画ではよくあることですが、この驚きは、子ども自身の描くという表現がもたらした印象そのものです。このように表現はいつも自身への印象を発信し、その信号を受け取って子どもは次の表現を紡ぎ出してゆきます。それは描画や歌に限られたことではなく、あらゆる表現がそうですが、子どもは次の表現を見つけ出すために保育者を必要とします。保育者は子どもの驚き=印象を言葉にして、自身の感動とともに子どもに返してあげます。
 そして、次の表現を子どもが導き出せるように、言葉をかけたり、じっと待ったりします。あるいは子どもの発話に応答して、絵と言葉を自由に行き来して、子どもと物語を展開します。その展開を記録したものが、コメントとして残されます。ですから先に書いたように、子どもの描画は保育者のコメントを得てはじめて、ひとつの作品になるのです。
 子どもにゆたかな表現を求めるのなら、日々の保育が、毎日がその子にとってゆたかであることが大切です。Impression(印象)とexpression(表現)を比較してみると、自分のうちに向けてプレスするのが印象で、自分から外へ向けてのプレスが表現であることがわかります。ですから子どものゆたかな表現は、結局のところゆたかな保育によるよりないのです。

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