第4章 保育に備えること、省みること
キャプションが入ります。
1.保育の計画と記録、評価、及び職員の資質向上に関する骨子
(2)保育計画には“装置(しかけ)”を
岩屋こども園アカンパニは、明日もなにかおもしろいことがおきればいいな、楽しい日になればいいなと考えています。ですから何かおもしろそうなことを思いついたら、子どもたちに提案してみます。興味を持った子どもたちと取り組んでみます。でもそこには保育の目標を実現することを目指すような"ねらい"を設定することはありません。
絵を描くときもそうです。そもそも絵を描くことや物を作ることはお腹が空いたらご飯を食べるようなものなのです。でも食事は、空腹が満たされればそれでよいというだけではなく、おいしいものを食べたい、だれかと楽しく食べたいと工夫します。造形活動もおなじで、どうせやるなら楽しみたいのです。音楽もそうです。砂遊びもそうです。ままごともブロックも絵本もみんな、お腹が空くのと同じようにしばらくやらないでいるとやりたくてしようがなくなるのです。渇望するのです。せっかくやりたくてやるのですから、すこしでも楽しくなるように保育者は工夫するのです。それが保育を子どもと展開する"装置"なのです。装置は子どもの発達を促したり、保育目標を実現したりするようなねらいなど持ち合わせません。ひたすらに自分を打ち込んで没頭できるか否かが"装置"の良し悪しを決定するのです。
岩屋の保育者は保育のあちこちに装置を仕掛けておきます。子どもたちはまんまとその罠にはまり込み、保育者とともに没入してゆきます。そしてその没入した世界から無事帰還して、1日が終わっていくのです。その没入から帰還までは、浦島太郎がカメの背中に乗って竜宮城へ行って帰ってくるのとおなじです。桃太郎の鬼が島もおなじです。センダックの「かいじゅうたいちのいるところ」もおなじなのです(矢野智司)。何かに没頭することで、子どもたちの意欲の水瓶はいよいよどっしりとしてくるのです。